一押し「ざ・にじゅういち」の「めざせ!ゼウス」を読んでいて、一つ引っ掛かり。

このままじゃ、ミダスになっちゃうよ!?


 今回取り上げられているのはミダス王。自ら神に望んで触れるもの全てを黄金に変えられる手を与えられたものの、食べ物も飲み物も黄金になり困窮したところで、願いを撤回した王の話。
 理想の国語教科書にも「ブルフィンチギリシャローマ神話』ミダス王」が採られているので、お気に入りの人物なのでしょう。
 因みにこのミダス王、「王様の耳はロバの耳」の王様でもあると、今回いろいろ検索していて知りました。


 このミダス王の逸話を他山の石に、咄嗟の問いに答えられるよう、自分の願いを常に用意しておこう。浅薄な欲求じゃだめ、突き詰めた自分の願望、願いを想定するのは、理想の自分をイメージしながら鍛えることにも繋がる、というのがだいたいの趣旨なのですが、それを受けて「声に出して言いたい」前述の一言。


 あのー、こういう風に重箱の隅つつくような物言いは、文脈力も質問力も容れぬ反齋藤的言動だと重々承知した上なのですが、それでも言いたい。
 「?」ってなんだー!!!


 ネット上では既に定着してしまったのでしょうか、この疑問形でない文末に「?」を置いて留める手法。
 これには、常々半疑問より質の悪い違和感を抱いておりました。疑問文でないのに、「?」を使うということは、言外に疑問(もしくは反語表現)を含んでいるってことですよね。でもその疑問の内容も明確でない。で、文脈から察するに軽い侮蔑が含まれていることが往々にしてある。
 

 例えば、
A:「声に出して読みたい日本語」の著者をご存じですか。
B:齋藤孝さんですよ。


だと、素直に「ありがとうございました」で終わる話が


A:「声に出して読みたい日本語」の著者をご存じですか。
B:齋藤孝さんですよ?


こうなると、「はぁ?そんなことも知らないの?」「何を聞いているの、今さら」という、呆れ、うんざり、辟易、軽蔑などの感情が込められる気がして、どうも引っ掛かる。
 と思うのは、単に趨勢に付いてってないだけなのか。わりと頻繁に目にする表現なので、抵抗なく使っている人が多いんだろうな。


 などと思っていたところに、齋藤様の一言ですよ。
 「ミダスになっちゃうよ!?」の後に続くのはなんでしょう。「いいの?それじゃいやでしょ。だったらなんとかしなきゃ!」・・・やや押しつけがましいきらいはあるものの、前掲の例ほどの無礼さは感じないので、一つの表現手法と見なすべきか。
 とここまで書いてふと思ったのだけど、これってもしかして「このままじゃ、アルシンドになっちゃうよ」をフィーチャーしてる?
 ・・・だったら許す。中途半端な前時代感、誰にも気づかれないまま捨て置かれることも恐れぬ不敵な茶目っ気、こういうの好きです。
 それなら「!?」もしっくり来る気さえしてきました。


 でもやっぱり馴染めない、疑問じゃない「?」。なんなんだ〜。明らかに喧嘩売ってるなら、こっちにも買い占める準備はあるのに。