「哀しみ」を語りつぐ日本人/日本語「息」「活」「粋」―7時間ぶっとおしトーク・ライブ!言葉のおしゃれデスマッチ!

 そもそもこの日記の出発点は「混沌の中にある齋藤孝熱を見極める」でした。(
1日目の日記 参照)
 「齋藤孝氏をこよなく愛する」と銘打っておきながら、無責任なのですが、未だ見極められずというのが本当のところで(コメントくださる方、本当に大好きで読んでくださる方には申し訳ないです)実のところ、読めば読むほどますます分からなくなるようなところもありまして。


 先日友人に「なんだかもう意地で読んでるのか、好きなのか嫌いなのかもよく分からなくなってきてるよ」と心の内を吐露したところ、「それは一度齋藤くんから離れてみることだね」と、だめな男とどうしても別れられない女の相談&アドバイスのような会話があり、逐電生活が好機なのかもねぇなんて思っていたのですが。
 ・・・しっかり読んでいますことよ。嗚呼、全く決断できない女を体現。


 というわけでしれ〜っと。こんなん読んでみました。


「哀しみ」を語りつぐ日本人

「哀しみ」を語りつぐ日本人


 いつもながら特に深い意味無く選んでみた二冊なのですが、結果としては、比較して読むととても面白い取り合わせ。よく芸人さんが「笑いの神様が降りて来てる」と言いますが、私には「読書の神様」もしくは「齋藤孝の神様」がついている気がします。
 それぞれ対論/対談で、質問力―話し上手はここがちがうストレス知らずの対話術 (PHP新書)の実践編として読むのが齋藤道的には正しいと思うのですが、前者と後者で齋藤様の立場が見事に反対なのが見所です。


 まず山折哲雄氏との対論、これは完全にホスト側。とはいっても最初からもてなし態勢なのではなく、探り合いから徐々に自らのポジションに収まっていく感じ。
 対論とは言え、最初のうちは両者の論が絡み合わなさ過ぎて、読んでる方がはらはらするほど。お互いに豊富な知識からの引用を次々に披瀝しあう、技の応酬になっていて、他流試合に臨む師匠を端から応援するような気持ちになります。


 転機を迎えるキーワードを発するのは我らが齋藤様。
「(山折氏が)よく使われる『カーニバル』ですね」と発言したのを受けて山折氏も「カーニバル」という語を用いて論を展開。一方が発した言葉をそのまま受けて続いていくのは、この場面が初めて。後二人の話はうまく絡んでいくのです。
 相手の著書を多数読みこなしていないと出てこないこの一言で、対論を実りあるものに導いた齋藤様の手腕は流石。やはりこれは実践編でしょう。他にも随所に齋藤様の技が見られます。


 そして古舘氏との対談では、一転してゲスト側。饗応を受けるのは一貫して齋藤様です。
 いきなり「今、先生はお忙しいでしょう」で始められたら、もう型にはめられたようなものでしょう。それに古舘氏、恐ろしいほど齋藤様を研究してます。著書を読んでいるのは当然のことながら、圧巻だったのは齋藤様出演のテレビ番組の中で一瞬映されたらしい手帳に書かれていた「モナコグランプリ」の文字に触れて、そこから話を広げて行きます。ストーカーさながらの「あなたのこと見てます」攻撃には抗うベうもなく、もう好きにして〜とその身を流れに任せるのみ。
 質問の持っていき方、相槌、コメント、全てにおいて、きっとこの対談中、齋藤様はとてもいい気持ちだっただろうなぁと思わせる見事なまでのプロの技。ここまで齋藤様がもてなされる対談はちょっと珍しいのではないでしょうか。


 二冊とも充実した対論/対談であるけれど、齋藤様が主客演じ分け、趣を異にするこれらの本、ぜひともセットで読まれることをお勧めします。


 離れるどころか、ますます加速つけてく勢い。きっと今日の「世界一受けたい授業」、かぶりつきで見てしまうことでしょう。好きか嫌いか分からない?いえいえ。