原稿用紙10枚を書く力


原稿用紙10枚を書く力

原稿用紙10枚を書く力


 私がいつもここで書いているのは、原稿用紙3〜4枚。意識したことはないけれど、今回無作為に選んで数えてみたら、ほとんどがこれくらいなので、きっとこれが私の、というのか「にほんご日記」の適量なのでしょう。いや容量か。
 確かに、この量なら構成メモを作り予め文章を構築してから書き始める程のこともない。メモを作ってることもあるけど、それは書いてるうちにどんどん脱線して本筋を忘れてしまうことが多いからという理由によるもので、構成メモというより備忘録のようなものだ。


 そんな原稿用紙3-4枚女の私でも、読んでいると、10枚書けるような気持ち、或いは10枚に挑戦してみようという気持ちになってしまいそうなのだけど、でも注意して読まないといけない。
 この本、第二章まではとても具体的で、なるほどこんな風にトレーニングしていけばいいんだな、原稿用紙10枚、恐れるに足らーず!とその気にさせられてしまう。そして恐らく書けるようになるだろう、量的な話だけでいいのなら。


 ところが第三章(「文体」を身につける)まで読み進むと、旗色が変わってくる。
 一章、二章を踏まえて、更に高度な「書く」ステージを提示しているのだけれど、ここから論調が抽象的且つ主観的になってくるのだ。ここからページ色を緑*1に変えてほしいくらいだ。


 文体の「生命力」について辛うじて「音読すると文章の生命力がわかる」と具体的な尺度のようなものが書かれているが、これが巧みなごまかしで、具体的であっても客観的ではない。量をこなしている達人なら音読によって文章をクリアに理解することは可能でも、凡人が音読したところで「生命力」なんてピンと来ない。
 そうか、声に出して読めば分かるのか、なるほど。なんて分かったような気になってはいけない。

 つまりこの域になると、もう自らの努力、研鑽によって体得するしかなく、更に言えば、天賦の才能というどうしても越えられない壁も相俟って、トレーニングじゃどうしようもないよな、とすごすごと諦めるしかない。でも文章力においては肝の部分なんだよな。やっぱり「書く力」というテーマには限界があるんだな。
 とは言っても、文章で身を立てていくわけでもない一般人が、日常の中で必要とされる程度の文章力なら、二章までの方法論で十分で、三章は、自らのスタイルを確立した天才の技を味わい、畏れ、あとは分相応にね、という戒めを込めたメッセージと読むのが適当なところか。


 「原稿用紙10枚を書く力」とのタイトルには沿っていないものの、内容としては三章が最も面白い。
 「文体」を身につけることの行は、余程客観性を以て読まないと、「私はスタイルで読ませるから大丈夫」という見当違いに過剰な自信を持ってしまう危険を孕んでいるので、要注意。殊にブログ界隈ではこの類の陥穽にはまりがち。と、返す刀で自刃か。


 ここまでで約3枚半。具体的な構成プランなしでどこまで書けるのか、と実験的に書き始めてみたものの、やっぱりこの辺りが限界だと言うことを改めて実感し、齋藤説を裏付ける結果となりました。というわけで、原稿用紙10枚書きたい人は、まず読んでみてください。全てはそれから。


 そして差し迫って10枚書く必要のない私は、そろそろ自分の文体(=スタイル)を確立させていきたいところ。
 まずは自分の立ち位置を明確に意識するのだそうです。いつまでも呼称も定まらず右往左往しているようではね。「齋藤様」で定着しているようでいて、内心では潔しとしないところもあって、実は齋藤様くらいの気持ちでして。
 気分に応じて使い分けてはいるものの、スタンダードなポジションがないのは、なんとも所在ないことなのです。いっそ、「きゃー、孝くぅ〜ん」(「真壁くぅ〜ん」の感じで)の方が「ミーハーな視点でこよなく愛する」の看板に偽りなしなのかも知れず。迷走は続く。なんとか5枚弱。

*1:三色ボールペン、まだ読んでないけどね