読みたい、読めない、「読む」の壁 / 日本の大事な話

日本の大事な話

日本の大事な話


 対談二冊。
 思えば、齋藤孝読破を志す前は対談物読むのが好きじゃなかった。脚本のように名前・台詞の構えで来られると、頭の中でいちいち声色変えて読んでしまうので、恐ろしく消耗してしまうんだ。
 戯曲への苦手意識から、あの形式を敬遠してしまうのもあるだろう。


 そもそも戯曲文学というのがよく分からない。
 だって、台本があって演出家がいて役者が演じて完成形なのに、生の素材だけ、ぽんと突き出されて、後は読者に託されるなんて、素人には荷が重すぎる。
 本来なら地の文で味わうはずの背景や登場人物の心情まで、こっちが慮って演じなきゃならないんだ。へとへとだ。
 あれは、本当は一般の読者、観客が軽い気持ちで触れられるようなものじゃなく、演劇人だけに許された嗜好品だと思っている。


 その消耗する感じは今でもやっぱり同じで、対談集を読むとやっぱりげっそりしてしまうんだけど、それでも本になるほどの対談ってのは面白いものが多い。
 少しは読み慣れたので、今までは飛ばして読んでいた雑誌の対談ページにも時には目を通すようになってきたけど、意味のないぐずぐずの対談ってのもやっぱり多くて、精選されて本になるくらいのクオリティのものを読むのが間違いないんだけど。


 で、この二冊。
 対談集と言っても「大事な話」の方は齋藤孝による対談集ではなく、ジャーナリストの元木昌彦氏がホスト役になってのものなので、アウェイだ。
 そして「読むの壁」の方はそもそも対談集ではない。ほとんどは識者による「読む」についての随筆で、齋藤孝阿川弘之氏との対談を採られている。ただ、この対談、大御所相手ということで敬意を表してなのか、齋藤孝の対談力のためか、完全にホスト齋藤、ゲスト阿川の構図が出来上がってるので、カウントとしてはホームでいいだろう。


 対談を読むようになったと言っても、多くは齋藤孝絡みなので、いろいろ読み回っているつもりで所詮手の平の孫悟空状態なのだけど、この二つの対談は対として読むと面白い。
 阿川氏の主張をうまく引き出すために、タイミング良く小気味よい質問を繰り出す齋藤孝に対して、元木氏はわりと訥々と質問して聞き手に徹している。それは、整理して原稿にまとめる作業を聞き手である元木氏自身が行っているせいでもあるのだろうけど、職人が目立たないように黙々と仕事に勤しむような印象だ。
 一見すると、大した質問もしていないのに、語り手が強いメッセージ力を持った人だから読ませるんだなと思わせる。けれど、そうしたメッセージ性のある人を対談相手として設定するところから、すでに対談力の技量が試されているとすれば、これもまた職人芸であると言える。


 こう思うと、齋藤孝の対談のスタイルは、かなり齋藤色が際立つ一種スタンドプレー的なところがある。これをよしとするか否かは、評価の分かれるところだけど、少なくとも私のような齋藤偏愛者にはたまらない。


 結局、対談の内容については全く触れてないじゃないか、と今気づいたけど、今回は対談の粋を味わったと言うことで。関連して、「大事な話」のあとがきに引かれていた評論家の大宅壮一氏の言葉が言い当ててる感じだったので孫引き。

「インタビューは相手の人間についてあらゆる資料を集め、それを読んだ段階で終わっているので、相手に会うのはそれを確認するためだけだ」


 実際は、対談にしろインタビューにしろ、そこまでのプロ意識を感じさせる聞き手は、本当に稀なんだけどね。
 新曲のプロモや番宣で、スマ関係のインタビューが重なる時期は、イライラさせられることが本当に多い。齋藤クン、やってくれないかなぁ。